【理科の部屋】大島オフ(98/04/11-12伊豆大島)

 やぎさんの主催する大島火山巡検オフに12名が集合しました。ツアコンから講師から運転手までひきうけてくださったやぎさん、本当にお世話になりました。ありがとうございます。以下、速報アルバムです。

 4/10竹芝22:00発の夜行船「さるびあ丸2」でまず7名が大島へ。行きの船内では早くもやぎさんの講義が始まる。寸暇を惜しんで予習するひたむきな参加者たち。

 さるびあ丸2は11日早朝5:30岡田港に到着した。空はよく晴れて夏日となり、絶好の巡検日和。

岡田港での日の出(ビデオ画像より)


 岡田港の桟橋から見える旧山体、岡田火山の露頭を観察。バスへと急ぐ他の乗客を尻目にやぎさんの解説を聞く。



 宿に到着して朝食を待つ間も、デジカメ&モバイルコンピュータ談義。研修はひとときも途切れることがない。左から神崎さん、渡辺さん、相原さん(左の写真)、あら坊さん、鈴木さん、やぎさん(右の写真)。


 朝食後、巡検に出発。火山博物館駐車場前の露頭で、基本的な考え方を教わり、博物館前の「日本一巨大な火山弾」を観察。しかし、このように巨大なものが空中を飛んでいるわずかの間に固化するとはとても思えず、文字通りの「火山弾」と言えるかどうか疑問、との声も。



 火山博物館裏手の砂防ダム工事現場。火山堆積層の間にN4溶岩(8世紀)が見えている。近寄って観察、サンプルを採集する。


 11時、熱海からの高速船「シーガル2」で、モリさんご一家が到着。さらに午後には飛行機でかけつけた萩谷さんを加えて一行は計12名になる。



 長沢砂防災害復旧記念碑付近。86/11/21の割れ目噴火でC火口から元町市街近くまで流れ下ったアア溶岩流を観察。当時、この溶岩流をくい止めるため、溶岩流先端に向かって放水が行われたという。三宅島噴火についで2度目の試み。


 溶岩流の中には溶岩樹型がいくつか見られる。左のものは横断面が、右のものは縦断面が見えている。


 島の南部にある「地層大切断面」。教科書などにもよく写真が載る名所だ。地層はもちろん降下火砕物累層であり、いわゆる褶曲構造ではない。過去2万年間に起きた100回余りの爆発的噴火の降下物の重なりを見ることができる。大島の「年表」である。右の写真中央の谷にはY1溶岩流が流れ込んでいる。


 この露頭では最も古いO95層(左写真の下の黒い部分)の接近写真(右)。

 火山博物館で見た大切断面の地層はぎ取り標本。なかなか大規模で見事なものだ。

 大切断面付近から見た海岸。白波が立つあたりはかつて海に達したY4溶岩流の先端。

 大島温泉ホテルからカルデラ越しに三原山を望む。なお、右の案内板の解説には重大な誤りが2箇所含まれている。指摘せよ。



 大島温泉ホテル前の一行。後ろは火山弾よけのシェルター。駐車場脇の露頭には下から上に向かって突き上げたような「謎の構造」が見られる(茶色い土壌の部分)。



 1986C割れ目火口。当時、山頂付近の観光道路を割って割れ目火口が生じ、溶岩が道路を分断した。やぎさんは避難の途中、まさにこの場所の亀裂の生じ始めたところを通過したという。右はその火口内壁。酸化鉄の赤い色が印象的。


 蜂の尻は2500年前に噴火した側火山のスコリア丘だ。建材やアンツーカー材としてよく用いられている赤いスコリアが採掘されている。旧火道の縦断面が観察でき、火山弾や火山豆石も採集できた。
 下は付近の露頭に含まれていた炭化木(溶岩に呑まれて炭化した樹木)。丸いのはスケールの一円玉。


 一周道路から二子山へ向かう林道を500mほど入った地点。86年の活動時、山体の変形で1m弱の段差を生じた。林道は応急処置されたままになっていた。

 西の観光名所「筆島」。4〜5万年前に活動して大島の原型を作った古い火山の一つ、筆島火山の火道角礫岩が侵食で残ったもの。つまり島の位置が当時火山の中心だったわけだ。

 波浮の港はN3の活動(9世紀頃)の水蒸気爆発で生じたマールで、その後の地震や津波で火口壁が崩れて海に通じ天然の港となった。

 御神火茶屋から望む三原山とカルデラ原。黒く舌状に伸びる溶岩流が生々しい。86年の噴火時に中央火口からあふれ出たもの。

 12日14:30。元町港の乗船待合所で最後の記念撮影。お世話になりました。またお会いしましょう。

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