川村康文
(京都教育大学附属高校 )
“ON WORTH LIVING” − a trial in Home-Room activity − ��
Yasufumi KAWAMURA
抄 録:教師の活動の中で最も大切なものは,生徒達に「よく生きる力」を身につけさせるこ とである。「生きがい」というテーマを生徒達と共に考える活動を通して,生徒達が 「よく生きる力」を身につけてくれればと願った。また,この活動を通して現在の若 者像を浮き彫りにすることも試みた。
キーワード:「生きがい」「Hq活動」「生活時間割表」「現在の若者像」
��.はじめに
「生きがいについて−H・R活動の中でのとりくみ−その1」(川村,1988a)は,筆者がまだ20才台半ばすぎの若さあふれる頃の取り組みの報告で,未熟ながらも教師としての熱意がほとばしっていたのが,自分でいうのはおこがましいが肌で感じられる。10年一昔とはいうが,あれからはやくも一昔の年月が経過した。
「その1」は,新人類という言葉で書き始めたが,その当時でも新人類という言葉はすでに古いという観をただよわせていた。筆者を新人類の一員にカテゴリ分けをした相手に対して,「言葉の定義上,新人類とは共通1次テストが始まって以降の人たちのことをさすので,最後の2期校生である私は最後の旧人類だ」と反論していたのがなつかしい。それからの約10年間,筆者はこの「生きがい」というテーマに関して必ずその次の段階の取り組みに移行したいという思いをもって過ごしてきたが,テーマがあまりにも重すぎたためと,校務分掌の関係で「その1」で関わった生徒達が卒業した後は生徒部を3年間にわたって担当したため,それ以降の教育実践を行う機会を持つことができないまま今日を迎えたというのが率直なところである。
ここで「その2」を報告するに至ったのは,「その1」より実践が進んだからとか,深まったからという理由で行うのではない。状況に関しては,むしろ「その1」を報告したときよりも悪化したというのが正直のところである。あっという間に10年の月日が流れたが,教育の現場にいるものは誰一人として「この10年間に教育はよくなった」と自身をもって語れる者はいないのではなかろうか。教育の研究者も実践家も共によりよき教育を求めて努力を積み重ねてきたことは間違いのない事実と認めたい。けれども,教育現場は,「いじめ」や「自殺」や「不登校」等いろいろな問題で混乱をきたしているのが実状である。筆者が担当する科目の物理では,「若者の科学離れ」が深刻になり物理を選択して学ぼうという生徒が明らかに減少した。一方,生徒達が理科学習で一番学びたいとしている内容は筆者が授業の中で行った簡単な調査では「地球環境問題について」であったが,彼らの希望は高校理科の現場ではほとんど省みられず,相変わらず物理・化学・生物・地学の枠組みの中で,それらの内容が旧態然と教え込まれているのが現状である。社会が急速に変化し続ける中で,教育もこの変化に対応した形での実践へと変化することが必要とされている。生徒達に関しても,ずいぶんと変わったのではという印象を筆者も抱いているが,本当のところはどうなのであろうか。
筆者の興味・関心は,現在の生徒達がもっている「生きがい」を調査し,それを明らかにすることではない。むしろ,彼らの「生きがい」探しのサポート役をしようというのが正直のところである。最近の構成主義学習論から明らかになってきたように,生徒は学習前から個々の考え方を構成しており,その考え方を判断基準として次の学習を行っている。また,その考え方は個々に多様なものではあるあるが,一方多くの者に共通するいくつかの考え方に集約することもできる。これは,それぞれの学習を行う前にそのテーマに関する生徒の考え方が「白紙」であるとする考え方に対立するものである。教師ならば,生徒達の価値体系が「白紙」でないことは多くの者が認めるところであろう。生徒達は,その時点で既にもっている考え方や価値基準でもって次の学習を行うので,このテーマの学習に入る前の彼らの考え方について調査し明らかにしておくことは重要である。
HR活動の中での学習を行う場合の学習理論を何に置くかということは,筆者にとってはかなり難しい問題である。また,行った学習活動への評価も難しい問題である。文部省が提案している新しい学力観との関連についても興味があるところである。筆者は,新しい学力観を実現しうる授業理論に構成主義学習論が有用であるとして,理科の教授・学習過程に対する考察を行ったが(川村,1996),HR活動においても構成主義学習論を授業理論として捉えて,HR活動の中で,「生きがい」についての学習を行った。本研究では,この実践の内容について報告する。
��.「生きがいについて」−H・R活動の中でのとりくみ−その1で明らかになったこと
(1)1987年(昭和62年)当時の高校生の現状
高校入学時の彼らの現状は,「高校に入れたんだから,楽しく過ごしたい。けれど,日々の勉強とか,大学入試とかで不安だらけで,どうしていいのか悩んでしまう(生徒のそのままの言葉)」の一言につきた。もう少し分析的に筆者の言葉で述べれば,「自立が未だになされておらず,当然ながら将来の展望も持っていない。職業観も持っていない。ただ,今日までテストでよい点を取ることだけに明け暮れするだけの毎日を送ってきたようである。高校の学習を十分なものにする時間的ゆとりもないのに,自分の大切な時間をけずって塾や予備校に通う。まるで,生命保険をかけるかのように。」という状況であった(川村,1988a)。筆者が高校生であった1976年(昭和51年)頃でも,もうすでにそのような状況にあったので,この状況はずっと以前からかわらないままであったことに間違いはない。また現在この論文を著している現在においても同様の状況にあることが,以下に示した生徒の文章より伺える(1995年9月に調査)。
…… この文章(「生きがいについて − その1」)を読んで,約10年前の高校生の言葉というのが今私が考えていることと同じだったということから,今も10年前も基本的には変わっていないと思った。私が塾に行っているのも,大学入試が不安で生命保険をかけているようなものです。
本校でも塾に依存する生徒は年々増加し,今ではほとんどの生徒が何らかの形で塾に依存している。このようなわけであるから,彼らは毎日の勉強に追い立てられ,自分自身のことについてじっくりと考えられていないまま日々を過ごしているわけである。同じこの生徒が書いた回答の冒頭は,次のような文章で始まっていた。
私は今まで生きがいについて考えさせられるということがほとんどなかったような気がする。それどころか自分についてじっくり考えるということさえほとんどなかったと思う。だから「生きがい」という言葉を聞いて,私の生きがいって一体何だろうかと考えてしまった。今のところ打ちこんでいるものもないし,毎日惰性で過ごしているし,将来についての考えも持っていない。でももしこのまま成長してしまうようなことになってしまったら,人生はつまらないだろうと思う。やっぱり人生を充実させるのに生きがいは必要だと思う。しかし,今すぐ生きがいを見つけるというのは無理だろうから,まずは自己を見つめて,自己を開発していくことに重点をおいていきたいと。そしてそこから,自分の生きがいを見つけたい ……
何かに熱中できる若者は学校の枠をもうとっくに飛び出していて,学校としては場合によっては困り者であるかもしれないが,何にも熱中できないでいる者の方が実は心配であると筆者は考えている。
(2)1987年(昭和62年)当時の高校生にとって必要だったもの
「その1」で,「高校生は,学校社会で生活をする人間集団の一員で,彼らが学校社会でのびのびと過ごすためには学力が要求される。」と述べた(川村,1988a)が,このことも当時と現在でかわらないことの1つのように思える。
しかし高等学校では,平成6年度から新教育課程が開始され,「新しい学力観」が提唱されている。「新しい学力観」では,従来の知識・理解の観点からの評価よりも,意欲や態度といった観点からの評価をより積極的に行おうということになっている。新学力観は,従来の学力観による評価を続けていたのでは,やる気に満ちた生徒が育たないという反省のもとに提唱されるようになったものと筆者は理解している。いずれにせよ,人は高い評価を受けることによってより本人のやる気が高められると考えられるので,高校生が学校社会でのびのびと過ごすための1つの重要な観点であるといえよう。
以上の観点から前稿「その1」では,次の2つの問題点を取り上げて以下のように整理した。1つは「なぜ学力が切り札か」で,もう1つは「どうすれば学力をつけさせることができるのか」であった。
まず,「なぜ学力が切り札か」の観点から考察した内容については,
人間生きていく上で,自分のしたいことをしたいようにできることが大切である。ゆとりをもって生活をしていることは,抑圧からの解放を意味する。学校社会という集団の中で,生徒が不適応をおこす場合,家庭不和,友人とのトラブル等いろいろな場合が考えられるが,多くは学力不振のため,学校社会への帰属意識が希薄になった場合に多い。勉強がいやになり,他の楽しみ事の方へ目が向いてしまうわけである‥‥彼らが元の所属集団に復帰できる道を開くことは教師の仕事であるが,一旦復帰した彼らを再び脱落させないように指導し続けることも教師の仕事である。つまり,毎日の授業に彼らが出席してくるためには,彼らにその授業を理解することができ,かつ彼らがその学習を継続することができる学力が切り札となってくるのである。学力に不安がなければ,クラブ活動にも,生徒会活動にも打ち込めるではないか。
次に「どうすれば学力をつけさせることができるのか」の観点から考察した内容については,
きびしい態度で臨むこと。生徒に対してではない。まず,学問に対して,同時に教師自らに対して。つまり,いいかげんな授業はしないの一言に尽きる。出席などできつい管理をしても,魅力のない授業に対しては,生徒は興味・関心を示さない。高校1年生の場合は,まだ義務教育のなごりがあって,無遅刻,無欠席も多いが,高校3年生ともなると,教師をみて動くようになる。つまらない授業をしていたら。遅刻だらけになってしまうのでは‥‥筆者が言いたいのは,彼らが積極的に授業に参加しようと思うきっかけを与える程度の授業を,我々は求めていく必要があるということである。またその心がけは微々たる成果にしかつながらないかもしれなく,学力向上という言葉にするには少々おこがましいが,学力をなんとかつけさせるという目標につながるのではなかろうか。結局,生徒の側で受けたいと思うような授業をすることが大切なのであろう。
以上の2点を整理して,「彼ら自身がしっかりとした学力を身につけるよう努力すること。そして,そのためには我々教師が,そのような授業を実践すること。あたり前のことなのであるが,その基盤の上に,クラブ活動へも,生徒会活動へも,HR活動へも積極的かつなごやかに取り組むことができるようになるであろう」と結んだ(川村,1988a)。今この時点で振り返ってもまさしく,教育の原点であると思える。
学校活動での基盤が,学力にあることは確かな現実であろう。一方,人間としての社会活動の基盤は何なのか。こう問いかけてみると,人生を「よりよく生きていく」のには,「生きがい」が大きな一翼を担うであろうと考えられる。さて,その「生きがい」は何によって支えられるのであろうか。早急に結論がだせるような問題ではないが,一つの見方として,学校活動と同様に,その人が携わる分野での学力かなと思えてくる。今一度,この「生きがい」というテーマにむかってどこまで掘り下げることができるか,挑戦してみたい。
��.「生きがい」についてのとりくみ
(1)「生活時間割表」の利用
「生活時間割表」が,なぜ「生きがい」について指導する際のキーになるのかについては,「その1」で詳述したのでそちらを参照して頂きたいが,以下に簡単に整理してみる。「生活時間割表」を通して,生徒の学校での学習のみならず家庭での学習実態を,教師が把握したりアドバイスしたりすることが行いやすくなる。それにより,生徒の「学習支援」を行い,彼らの学力保障につなげようという願いが込められているわけである。また,「生活時間割表」の具体例については,「生活時間割表を利用しての家庭学習指導について」に詳述した(川村,1988b)。
筆者は,平成6年度(1994年)より引き続いて現在の学年を担当している。この学年の生徒は,高等学校でも平成6年度より新学習指導要領が始まったので,新カリキュラム初年度生ということになる。
平成6年度4月当初に「生活時間割表」を担当クラス(1年生のうちの1クラス)の生徒全員に作成させ,2部提出させた。このとき,以前に担当した学年の指導の際に作成した冊子を見本として参考にさせた。提出させたもののうちの1部は,生徒本人に返却し自宅で彼らが利用するためのものとした。もう1部は,担任教師用の指導資料とし,担任教師が保管した。担任の指導資料としての利用法の1つに,クラス作りに役立てるという方法がある。生徒の名前をふせて各生徒が作成した「生活時間割表」を公開し,1冊の冊子にして生徒に配布することによって,クラスの生徒が「どのような考え方をもっているのか」や「どのように工夫して毎日の生活を送っているのか」や「具体的な悩みごと」をクラスで共有させた。表紙には,クラスの連帯感が構成されるように願って「クラスのみんなが手をとりあって」という言葉を書き入れた。生徒達は,クラスメイトの「生活時間割表」をみることによって互いにそれぞれの「生活時間割表」を批判し合ったり,自分の考え方や生活態度について自己批判を各自が思い思いに行った。このような取り組みは,構成主義的学習論を拠り所として行った。
また,「生活時間割表」の作成の仕方や自分流の活用法について,ショート・ホームルームや放課後に生徒がアドバイスを求めてきたが,生徒との個人的な関係を構築するツールとしても,「生活時間割表」は有用であった。さらに,生徒に対して積極的な指導を行う際に,生徒の個人面談資料としての利用価値が高かった。
「生活時間割表」のもう1つの指導資料としての利用法は,保護者面談の資料としての利用である。保護者に生徒の学校での状況を伝えるツールとしても有効であるが,もっとも効果があるのは,保護者と生徒の家庭での生活について共通理解ができることである。保護者面談を通じて感じたことは,この10年程で保護者の意識が予想したとおり変化していたことである。保護者の道徳的意識の低下は徐々に進んでいるといえよう。面談の予定の時間に遅刻する人が増えたことや自分は遅刻してきたのに次の順番を待つ人のことを考えずに自分の子どもの事だけを考えている人など呆れるような道徳的意識しかもっておられない方が増えた感触がある。また,面談の約束を忘れていてすっぽかす人も以前より増えていた。一番呆れたのは,「子どもが学校からの手紙を見せませんので,他のお子さんの親御さんに聞いて慌てて面談によせて頂きました」というものであった。面談の待ち時間の間に,タバコを喫って,吸い殻を廊下に「ポイ捨て」する人などゆゆしき事態と感じられた。
このクラスは,教師からの評価では,授業中明るく活発で,授業によく集中できるよいクラスということであった。また,文化祭のクラス展示では,パイプオルガンを出展し,文化祭のクラス展示の部(コンテスト形式になっている)で優勝した。筆者は,担任としてこのクラスと関わったが,それ以外にも生物の教科担当としても関わった(本校でも,物理学習の選択者が減少したことが反映されている)。筆者は,このクラスを「特に何事もなく,いわゆる健全な普通のクラス」と評価した。しかし,いわゆる健全な普通のクラス作りは,生徒達の自治能力を高めるのに効果的である。生徒をぎゅうぎゅうに管理し締め付けてしまったのでは,彼らの自治能力を高めることは期待できない。次年度の前期生徒自治会本部役員は,生徒自治会執行委員長(いわゆる生徒会長)をはじめほとんどがこのクラスの出身者で構成された。全国的に,生徒会の成立が困難な状況にあるなか,すみやかで鮮やかな生徒自治会の成立であった。
平成7年度(1995年)は,この学年を引き継いで持ち上がり2年生の担当となった。このクラスは昨年度のクラスとかなり様相が違った。クラスの特徴は,理科系の大学への進学希望者で構成され,数学・物理・化学に生徒の意識が集中していた。また,現在の生徒が,現実を生きる中,学習時間や学習量に対して余裕がないことを示す行動がみられた。例えば,数学・物理・化学の授業は集中するが,他の教科・科目では,数学の問題集を解いていたり,授業をさぼったりする傾向が幾分濃厚であった。1学期の早い時期から,教科担当の教師から担任へ何人かの生徒の指導をお願いされることが多々あった。当該生徒を指導してみてわかったことは,一般にわがままな性格が前面に表出されていた。このことの担任としての解釈は,「文科系への進学希望の生徒は,将来,自分のしたいことややりたいことをじっくりと考えてから選べるのに対して,理科系への進学の希望者は,将来設計をかなり早い段階で決定することを強要される傾向があり,また難教科とされる数学や物理に多くの時間がとられ,自分自身のことについて深く洞察するような時間がもてない」というものである。数学や物理で遅れをとっている生徒にしてみれば,1分1秒が問題である。クラスの状態がこのような状態で,夏休みに控えた研修旅行に向けての作業などもあって「生きがい」について生徒と膝をつきあわせて考える時間もとれないままあっという間に1学期が終わってしまい,2学期からこそはなんとかしたいという思いでいっぱいであった。
しかし2学期は,9月半ばに控えた文化祭の準備で始まり,それに明け暮れした。息をつく間もないほどの忙しさを何とか終え,ほっと一息をついだとき,担当学年の生徒を中心に多数の本校生による飲酒事件が起こった。
担任の反省と共に述べられることは,以下のとおりである。当初から,このクラスはまとまりに欠けていたので,HR委員長(学級委員長にあたる)が中心となって,1学期中になんとかクラスにまとまりを作りたいというムードがあった。担任としてもこのムードを支援した。しかし,担任のとった行動がムードの支援のレベルであったかについては幾分反省しなければならない。というのは,HR委員長が中心になって行った活動が,なかなか効果を発揮せず,担任として幾分HR委員長に対してプレッシャーをかけすぎた傾向があった。このプレッシャーが,HR委員長にクラスの人たちが仲良く1つになれるならばそれでよしとするムードを作り上げてしまったことである。もともと,この飲酒事件は我々教師が知らない間に毎年継続して行われていたとのことである。「その1」の対象となった生徒達が卒業してから,祇園祭りを彼らと共に過ごしたが,その場でも「今となっては時効ですが,文化祭の打ち上げを四条大橋の下の鴨川沿いの河川敷で飲酒で盛り上がりました」と打ち明けられた。この件では,10年ぐらいの時間的変化では高校生のなす行動はそう変わらないのかと感じた。しかし,十代の飲酒は,彼らの健康阻害はもとより法律違反にもあたるので,今後は一層そのような事件が生じないような対策を考えて行かなければならない。また,このような傾向がエスカレートしないような指導の対策を打っていかなければならない。
学年としての立て直し及びクラスとしての立て直しの中で,このクラスの生徒は,その年度初めて「生活時間割表」に出会うこととなった。1年生次に筆者の担当クラスであった生徒は「生活時間割表」を既に知っていたが,その他の生徒は初めてみることとなった。初めて「生活時間割表」にであった男子生徒の中には,「こんなにいいものがあるんだったら,もっと早くにみせてほしかった」という感想を述べた者がいたが,学年の初めに手を尽くしておけばよかったと反省させられた。指導が後手に回ると負のフィードバックが作用し始め,健全な状態への復帰が難しくなることが身をもって体験させられることとなった。この対応には,「生活時間割表」を通しての指導だけでなく,彼らの「生きがいさがし」や「自分さがし」に対してより積極的な指導を展開した。
(2)「生きがいさがし」のカリキュラム計画
担当学年が2年生の2学期の半ば以降,次のような取り組みを計画した。「生きがいさがし」を学年行事や学校行事との整合性を保ちながら,彼らの健全な精神発達を支援するための活動と位置づけ,HR討議を積極的に行う中でクラスの連帯と個人の自立をめざした。HR討議の具体的内容として以下の7テーマを考え,全10回で展開することをクラスに提案した。
第1回:「生きがい」についての調査(事前調査)
第2回:「生活時間割表」の作成
第3回:クラス討議「いまどきのまじめとは」
第4回:クラス討議「自分とっての職業とは何か」
第5回:クラス討議「自分は大学で何をしたいのか」
第6回:クラス討議「死ぬときに自分は何を語るだろうか」
第7回:クラス討議「自分の子どもにはどのような人生を歩ませたいか」
第8回:クラス討議「自分の親をみて何を感じるか」
第9回:クラス討議「まわりの大人達への要望」
第10回:「生きがい」についての再調査(事後調査)
(3)「生きがい」についての調査(事前調査)
1)調査の対象および時期
調査の対象者は,京都教育大学附属高校の2年生男子41名女子37名合計78名である。調査対象者が属する学年は,5つのHRで構成される。本研究では,統制群法を用いた。実験群は男子20名女子24名計44名で,1つのHRに属する。統制群は男子21名女子13名計34名で,前述のHR以外の4つのHRに属するする生徒である。実験群の生徒の特徴は,理科系に進学を希望し理科系進学用の物理の選択履修者である。統制群の生徒の特徴は,非理科系への進学を希望し文科系進学用の物理の選択履修者である。
調査の時期は,1995年9月19日から9月28日にかけて行った。
2)調査の内容と方法
調査を行うのにあたって,両群の生徒に「生きがいについて−H・R活動の中でのとりくみ−その1」の内容を短時間で読ませ,それをふまえて次の3つのテーマに自由記述で回答させた。なお,(1)については全員回答するよう要請したが,他の2つのテーマについては時間的余裕がない場合には回答しなくてもよいとした。回答用紙は,B5判の白紙1枚を与えた。
(1)自分にとっての「生きがい」について述べよ。
(2)「高校生とは」について述べよ。
(3)「生きがいについて−Hq活動の中でのとりくみ−その1」を読んでの雑感
3)調査の結果と考察
調査結果は,次の表1のように整理された。
表1.■についての事前調査結果(複数項目に該当するものは複数回数えた)
項 目 実験群男子 実験群女子 統制群男子 統制群女子
(1)必要でない@ 10.0(2) 12.5(3) 4.8(1) 0.0(0)
(2)必要であるがもっていない@ 15.0(3) 37.5(9) 47.6(10) 46.2(6)
または,みつからない鬘 15.0(3) 8.3(2) 4.8(1) 15.4(2)
(4)高校生活以外の現在の生活の 5.0(1) 0.0(0) 4.8(1) 15.4(2)
中に見いだしている
(5)自己実現の過程の中に 40.0(8) 37.5(9) 28.6(6) 46.2(6)
見いだしている
(6)将来の職業の実現の中に 10.0(2) 25.0(6) 4.8(1) 0.0(0)
見いだしている
(7)わからない@ 5.0(1) 4.2(1) 33.3(7) 0.0(0)
(8)自分と関連付けて答えていない@ 15.0(3) 0.0(0) 0.0(0) 0.0(0)
または,さけている/P>
注.表中の値は%を表し,( )内の数値は人数を表す。
実験群,統制群両群を通じて,「(5)自己実現の過程の中に,生きがいを見いだしている」者が比較的多かったといえる。回答は,自由記述方式なので,筆者の主観が幾分強調されるかもしれないが,ニヒルに「生きがいなんて,必要じゃない(1)」とか,「自分とは関係のないことさ(8)」のような回答をする者は少なかった。実験群女子は,「(6)将来の職業の実現の中に見いだしている。」者が他の群に比べれば多いが,これは理科系の女子の職業選択の幅が未だに狭く,彼女らの活躍の場として,「医・歯・薬」系への進学を考えているからであろう。一方統制群男子は,「(7)わからない」とする者が3割以上いた。自由記述であるため,彼らなりの深淵な「生きがい論」を説いた上で,「やはり,生きがいとは何のかわからない」としている。いわゆる「生きがい論」をぶっているので,ある意味では「(8)自分と関連付けて答えていない。または,さけている。」のカテゴリーに近い回答ではあるが,それでも,自分との関わりを幾分でも考慮していたので,(7)とした。
ここで,注目するべき内容として,いじめにあってきた生徒の事例をみてみる。
事例1.比較的大きな文字で2行と3文字(読点を含む)書かれている。また,提出するのに相当の時間がかかり,一番最後に提出した。
「生きがいとは,その人が生きていてよかったと思えるようなことだと思う。」
また「高校生とは」については,「高校生とはある定義された年代の集まりである。」と記述していた。
事例2.課題を与えたその時間の内には書けず,数日後に提出した。
「はっきり言って分かりません。」また「高校生とは」については「いろんな事を経験する時(大人になって大失敗しないようにするために)。そのたいろいろ。はめをはずすのは今のうちじゃないですか。」
との記述があった。
両者とも,「生きがい」について自分との関係をとらえての記述がみられないというのか,さけているというのか,あまりにも,短い文章でドライに述べている点が共通している。相手に,自分の何かをしっかりと伝えていこうという情熱的な文章ではない。どちらかと言えば,達観したような表現がなされているようにさえ筆者には感じとれる。クラスリーダや学業成績の比較的上位者では,「生きがい」というテーマで,B5判の紙面いっぱいに自分の思いを書きつづっているのがほとんどであった。いじめられる生徒に対するホローアップの手がかりは「自己について表現したいという思いの強さ」の差にあるのではなかろうかという感触をつかみつつはあるが,決め手となるかどうかはまだ吟味する必要があろう。
「高校生とは」については,多くの者が「楽しく遊ぶとき」とか「やりたいようにやるとき」と答えている。また「逆に,大学生は勉強をするべき」とし,高校生時代を,大学へ行って何を勉強するのかや,どう生きるのかについての試行錯誤のための時代と規定し,失敗が許されるべきだという主張もみられた。また,「昔とくらべて,今の高校生は悪いと思われているのかもしれないが,僕らは,昔の高校生を知らないし,それにならおうとも思わない」とはっきり言い切っている記述も多々みられた。
(4)クラス討議について
クラス討議の方法については以下の手順をとった。まず,授業中の座席表にしたがって7〜8人で6つの班を構成させる。班が決まれば,そのメンバーの中から班長と書記を決めさせる。班長の仕事は,班討議の司会を行うことと,班討議の内容をクラス全体に発表することである。書記の仕事は,班討議の内容を記録することと班長がクラス全体への発表を行ったことに対するフロアーからのコメント等を整理することである。班討議は,毎回約15分をあてた。また,班長のクラス全体への発表は2分とした。各班からの発表の後,フロアーから意見をいう時間を1〜2分とった。
生きがいさがし第3回「いまどきのまじめとは」(11月30日;木)
基本的に自由討論としたが,班討議の経験が少なく議論が始まらない班もあったので,班討議開始後3分たったときに次の3つの観点を与えた。
(1)授業態度について
(2)生活態度について
(3)他人の振りみて我が振り直せ
一般に,授業態度に関しては「一生懸命授業に臨む」や「遅刻をしない」等のように常識的な意見が多かった。一方,「授業をさぼらないだけがまじめじゃない」とか「先生のじゃまをしない」,「先生に好かれる」等の意見があり,高校生は高校生なりに人に気を使って生活していることが伺える。しかしこのような教師・生徒関係を,果たして正常といってよいのであろうか。教師・生徒間に本当の意味での人間的な関係の構築が必要であ。とはいっても,確かに教師・生徒間の人間的なつながりを構築することが難しくなってきた。このような時代であるからこそ,何らかの取り組みが必要になるわけである。
班の記録用紙の感想の欄に「まじめは勉強に限定できるかな」というようによりよい方向性を求めた意見があった一方で,幾つかの班では「まじめが良いことなのかが問題だ!」や「授業態度と生活態度は両立できない」というコメントがあったが,クラス討議を経た後であってもこのような考え方を変えることが難しいことがわかった。
また,「まじめにするに対してわがままにしない」という提案があったが,「わがままじゃない」というのはどういうことかという問題が残ったままになった。
生きがいさがし第4回「自分にとっての職業とは何か」(1月25日;木)
生きがいさがし第3回のクラス討議を終えてから,学年全体集会や新年度のカリキュラム登録説明会,進路説明会,同和研修などが続き,生きがいさがし第4回を実施するのが3学期に入ってからのこととなってしまった。
このテーマでも常識的な意見が多かった。例えば「生きていく手段」,「いやいややるんじゃなくって,自分の好きなことや他の人に誇れることをしたい」,「自分の能力を生かす」,「個性を生かす」,「人生を決めるもの」や「どんなにお金があって一生働かないで暮らせるほど裕福でも仕事はつきたい」等である。また,多くの班で「生きがい」としたものがみられ,彼らの心の片隅に常に「生きがい」というテーマが意識されているということが伺われる。なお,このときのクラス討議において授業者はいっさい「生きがい」という言葉は用いていない。
生きがいさがし第6回「死ぬときに自分は何を語るだろうか」(2月8日;木)
最初7回分のクラス討議を予定したが,期日が迫ってきて全てのテーマでクラス討議ができなくなったので,今回は第6回目のテーマについてクラス討議を行った。
前回及び前々回の反省から,各班の発表の後にその発表を受けてもう一度各班討議を行ってはどうか等の意見もあったので,今回は最初にその旨を教示した。
今回の討論では,討論への姿勢は徐々にではあるが形成され始めたという手応えを感じた。具体的には,班討議に入ってから次のような質問とその後に討論のテーマに修正を加えてはという提案が見られた。
質問は「死に方はどうなんですか。今死ぬとしたらですか。それとも事故死やあるいは老衰ですか」というものであった。現在問題になっている社会問題の一つに,「生命倫理の問題」や「よりよい生き方」,「我々は死に方を選べるのか」ということがあるので,これらのことに意識を向けさせるのによいきっかけになればと思い,「死に方も決めて下さい」と教示した。
テーマの修正を求める意見は,「何を語るだろうか」ではなく「何を語りたいか」にしてほしいというものであった。筆者としては,これら一連の討論会は彼らが彼らの考え方を構築するのに役立てばよいという考えで実施しているものであり,そのような目的にかなうものであれば積極的に支援していく必要を認めるので同意し,討論のテーマを「死ぬときに自分は何を語りたいか」に途中で変更した。
発表内容は,まじめな考え方として「残った家族の健康を祈って死ぬ」,「今までの感謝を述べる」,「地球の平和を願う」,「何も語らずに静かに死んでいく」というのがあったが,現実的な話題として「遺産をきちんと分けるようにいう」や「墓参りはちゃんとしてやー」というものもあった。一方,「事故死では語れない」や「老衰で死ぬとき,寝ているうちに死ぬから何も言えない」というような笑いをさそうような内容もあった。また,文学的なタッチのものとして(自分の好きな人を横において「少し寝させて」といって死ぬとか,「ずっと愛していた……」といって死ぬというのがあった。
「死に方」については,「痛くなく死にたい」,「畳の上で死にたい」,「老衰で死にたい」,「水死,焼死,餓死,交通事故はダメ」等であった。また,「死ぬ年齢」については,「30歳」,「知り合いがいる間」,「80歳」,「いつでもいい」等であったが,「今すぐはイヤ」ということで,とりあえずはこれから先のことをよりよく生きていこうという姿は感じ取れた。しかし,長寿をして周りに知り合いがいなくなるのはイヤと考えているところは,筆者の感覚との一致を感じた。
いずれにせよこのテーマは彼らには少し重すぎたテーマであったようで,「今ではまだわからない」,「どこの班もだいたい似ている」,「進む人生によって違うので一概に先のことは語れないということがわかった」という感想でしめくくられていた。医学部への進学志望の生徒が多いのに,人の死に方みたいなことに関しては単に生物学的な見方が優先し,「人として生きているとか死んでいる」という意識まで高められた討論ができていなかったのが気ががりである。今後は,もっと「人として生きる」ということについて彼ら自身の問題として考えることができるように促していく必要がある。
筆者にとって教育実践とは,本当に難しいものである。当初「生きがいさがし」のHRを10回に渡って計画したが,気がついてみればクラス討論はたった3回しか実施できなかった。これが筆者の教師としての力量の限界であった。
(5)「生きがい」についての再調査(事後調査)
1)調査の対象および時期
調査の対象は,事前調査と同じである。調査時期は,1996年3月15日〜18日である。
2)調査の内容と方法
調査の内容は,事前調査と同じである。調査方法は,「これまでの生活を振り返って,自分にとっての生きがいについて記述して下さい」と教示してから,B5判の白紙1枚に自由記述させた。
3)調査の結果と考察
事後調査の結果は,次の表2のように整理された。
表2.■についての事後調査結果(複数項目に該当するものは複数回数えた)
項 目 実験群男子 実験群女子 統制群男子 統制群女子
(1)必要でない@ 0.0(0) 0.0(0) 4.8(1) 7.7(1)
(2)必要であるがもっていない@ 25.0(5) 25.0(6) 38.1(8) 15.4(2)
または,みつからない@
(3)高校生活の中に見いだしている@ 5.0(1) 29.2(7) 0.0(0) 23.1(3)
(4)高校生活以外の現在の生活の 0.0(0) 4.2(1) 4.8(1) 7.7(1)
中に見いだしている@
(5)自己実現の過程の中に 70.0(14) 54.2(13) 42.9(9) 69.2(9)
見いだしている@
(6)将来の職業の実現の中に 0.0(0) 12.5(3) 4.8(1) 0.0(0)
見いだしている@
(7)わからない@ 0.0(0) 0.0(0) 0.0(0) 0.0(0)
(8)自分と関連付けて答えていない@ 0.0(0) 0.0(0) 4.8(1) 0.0(0)
または,さけている/P>
注.表中の値は%を表し,( )内の数値は人数を表す。
実験群では,HRで「生きがいに」についてクラス討議を行った。討議回数は3回にすぎないが,絶えず担任が「生きがい」について生徒達に考えさせた。統制群では,HRで特に「生きがい」にテーマを絞って討論をしていない。しかし,筆者が物理(文系コース)の授業を担当する中で,事前調査の後に「生きがい」について考えを交換することもあったので,実験群と統制群を厳密に分けることはできない可能性が残された。
カイ自乗型要因分析(倉智,1973,pp.148-149)によって表1,2の各項目ごとの検定を行ったところ,「(1)必要でない」〜「(8)自分と関連付けて答えていない。または,さけている。」の全ての項目について,事前・事後の間及び群間に有意差は認められなかった。結果を概観すると,実験群,統制群問わず,「(5)自己実現の過程の中に,生きがいを見いだしている」者の数が,大きく増大している。事前調査の段階では,幾分回答にばらつきがみられたが,事後調査では両群とも(5)にかなり収束してきている。そのなかでも統制群男子は,「(2)必要であるがもっていない。または,みつからない。」としている者の割合が40%近くと事後調査でもまだ高い数値を示している。このことと,実験群では(2)が男女共に減少していることとから,実験群で行ってきたとりくみは,統計的には有意差が認められなかったものの幾分効果があったということができよう。
これから以降研究を継続するにあたっては,年度当初からの計画にしたがってクラス討議の回数をもっと確保したり,このようなテーマで議論することの必要性について話しあったりすることが必要となろう。いずれにしても,教師が介在することなく高校生達のみでこのようなテーマについて自発的に議論されるような土壌を教育環境として,教師が準備することが最も大切なことと考えられる。
��.おわりに
生徒の薦めで,『自然農法わら一本の革命』(福岡,1983)を手にした。地球環境問題との関わりで読んでみようと思った書であったが,自然農法の考え方は奥深いもので,その中には,教育への考え方や,人生への考え方までが記してあった。福岡はボストンのアムハースト大学(新島襄やクラーク博士の出身校)のセミナーで次のような語ったという。
「自分は何もしないことをするために,しないように,しないようにしてきただけだ。四十年かかって,ああしなくてもいいんじゃないか,こうしなくてもいいんじゃないか,というやり方の百姓をやってきただけにしかすぎない。
人生にはこういう目標がある,どういうのが生き甲斐であるなんて言うけれど,人間には目標なんかもとからありはしない。何をしなければいけないということも一つもありはしなかったんだ,ということを四十年前に知った。人間が勝手に設定しただけにしかすぎない。
豊かになる,幸福になるという錯覚をおこして,仮の目的をこしらえただけにすぎない。何もしなかったら,いちばんつまらん,生き甲斐のない生活かというと,どっこいそうじゃない。反対だ,と。… 中略 … すべての人がなにもしないようにしたら,自然に世の中は平和になるし,豊かになるし,言うことはなくなってしまう」
あまりにも含蓄のある言葉で,老子の思想についても深く考究し思考された人物の言葉とはこのような自然体のものなのかと考えさせられた。福岡は,教育も自然になすのが一番と語っているが,それでもそれは放任とは別の次元のことであるとしている。自然の姿をした稲やミカンの木の姿と,放任されたものの姿をスケッチで示し,放任を戒めている。しかし,管理してはならないと語る。
筆者が,自分の生きがいはこうだ,と意気込んでいる横で,家内は「何もしないのが一番幸せになれるんやで,一回そうしてみ。本当に幸せになれるし。」と語る。勿論,彼女は福岡正信を読んでいない。
発展途上にある筆者にとっては,人生を悟るまでの間は,業を燃やし,「生きがいとは!」と意気込み続けるしかないか。
文 献
川村康文「生きがいについて−Hq活動の中でのとりくみ−その1」,京都教育大学教育実践 研究年報第4号,1988a,pp.181-196
川村康文「生活時間割表を利用しての家庭学習指導について」,京都教育大学附属高校研究紀 要第44号,1988b,pp.141-158
川村康文「構成主義的アプローチをふまえた理科の教授・学習過程に関する一考察」,京都教 育大学附属高校研究紀要第59号,1996,pp.51-69
倉智佐一『教育統計法要説』協同出版社,1973,pp.148-149
福岡正信『自然農法わら一本の革命』春秋社,1983,pp.260-261