真空中の逆さコップ

神奈川県立湘南台高校 山本明利

 コップに水を満たして厚紙でふたをし、逆さにして手を放しても厚紙や水は落ちない・・・。大気圧の存在を示すためによく行なわれている実験です。大気圧が下から厚紙や水を支えているというわけです。大気圧は10m余りの高さの水柱の底部での圧力に匹敵しますから、たかだか10cm程度のコップの水など苦もなく支えることができることになります。
 さて、コップの水を支えているのが大気圧だというのなら、その大気を取り除いたらどうなるのでしょうか。水を満たして逆さにしたコップを真空容器の中に設置し、真空ポンプで容器内を排気していくのです。いったいどんな現象が起こるのでしょうか。

【YPC例会での予想】

 先日の例会でYPCの皆さんに予想してもらったら、実に色々な候補が出てきました。代表的なものをあげてみます。あなたはどれだと思いますか?

A:真空ポンプを起動した途端に水は落下する。
B:水に溶けている気体が出てきて上部に気泡ができると落下する。
C:厚紙が外に凸になるように変形し、それによりコップからはずれて落下する。
D:厚紙とコップの接点付近で外気に直接触れている水の部分が沸騰し落下する。
E:内部の水が沸騰を始めると落下する。

【実験の方法】

 実験は図1のような装置で行ないます。コップは底部に銅の針金で作ったフックを取り付けてあります。真空デシケータの中が水浸しにならないように1リットルビーカーを受け皿にします。コップに水を満たして厚紙でふたをし、上記のフックをビーカーのふちにかけて逆さに固定したのち、真空ポンプを起動して排気します。容器内の気圧は途中に接続した水銀マノメータではかります。
 例会では実験のもようを収録したVTRを上映して討論の材料としました。上記のように様々な予想が乱れ飛びましたが、現象を正しく言い当てた人はいませんでした。こと実験に関しては百戦練磨のYPCの常連においてさえその成績ですから、この現象の説明がいかにむずかしいかがわかります。


図1 実験装置
真空デシケータ内に水入りコップを逆さに固定して排気する。マノメータで内部の気圧を測定している。

【予備実験の結果】

 実際に起こる現象の概略は次のとおりです。

(1)真空ポンプを起動して気圧が低下し始めてもしばらくは何も起こらない。
(2)水の下部(厚紙付近)から小さな気泡が立ち昇り始め、しだいに増える。
(3)コップの上部に気泡がたまり始め、しだいに拡大する。
(4)気体によって押し出された水が紙とコップの隙間から徐々に滴り落ちる。
(5)上部の空間が広がり、しだいに水位が下がるが、厚紙はまだ落下しない。
(6)排気速度が速いと厚紙は残りの水と共に落下することがある。十分ゆっくりと排気するときには厚紙は最後まで落ちない。

 排気速度が十分ゆっくりなら、厚紙は水がすべて流れ出してしまうまでコップに貼り付いたままでいるという点が注目に値します。気泡の膨張が速いとあふれ出る水流に耐えられなくなって落下するケースが多く、はじめに入っている空気が多いと早い時期に落下する傾向があります。

水が紙の縁から流れ落ちる図2 十分ゆっくりと排気すれば中の水が沸騰して上部に水蒸気がたまってもまだ紙は落下しない。押し出された水は紙とコップの隙間から流れ出している。水がすべて流れ落ちた後に、はがれるように紙が落ちる。




【より精密な実験とその結果】

 第二段階として、議論をより精密にするためにさらに コップの実験を四つ加えました。

(a)水を満たしてガーゼで口をふさぎ排気する
(b)空気を残してガーゼで口をふさぎ排気する
(c)水を満たして厚紙でふさぎゆっくり排気する
(d)空気を残して厚紙でふさぎゆっくり排気する

実験(a)(b)ではガーゼは輪ゴムで軽くとめておきます。結果は以下の通り。

実験(a):水はコップ内に保持される。周囲を排気すると、まず内部で気泡が立ち上り、やがて沸騰状態となり、上部に気体がたまり始めると、コップの縁からガーゼを通して水が静かに滴り落ちる。この間、ガーゼは内側にへこんだ状態になっており、水が全て落下した後、ガーゼが外側に膨らむのが見られる。
実験(b):水はコップ内に保持される。周囲を排気すると、上部の空気が膨張をはじめ、コップの縁からガーゼを通して水が静かに滴り落ちる。この間、ガーゼは内側にへこんだ状態になっており、水が全て落下した後、ガーゼが外側に膨らむのが見られる。最後まで沸騰は見られない。
実験(c):水はコップ内に保持される。周囲を極めてゆっくり排気すると、まず内部で気泡が立ち上り、やがて沸騰状態となり、上部に気体がたまり始めると、コップと厚紙の隙間からしみ出すように水が静かに滴り落ちる。厚紙は水が全て落下した後、静かにはがれおちる。
実験(d):水はコップ内に保持される。周囲を極めてゆっくり排気すると、上部の空気が徐々に膨張し、コップと厚紙の隙間からしみ出すように水が静かに滴り落ちる。厚紙は水が全て落下した後、静かにはがれおちる。最後まで沸騰は見られない。

【実験結果の分析】

 以上4つの実験を比較してわかることは、まず排気速度が遅ければ水は最後まで落下せず、上部にたまった気体の膨張に伴って静かに滴り落ちるということです。前回、途中で落下する例が見られたのは排気が速すぎて水流により不安定になったためと考えられます。
 沸騰が起きるか否かもこの現象にとって本質的なことではありません。上部の気体の供給源の違いだけです。上部に気体が供給され、その体積が増すと、その分だけ水が押し出されますが、残りの水はコップ内にとどまろうとします。
 実験(a)(b)でガーゼが内側に向かってへこんでいることから、水柱の下部の水圧はそのすぐ下の気圧より若干小さいことが推測できます。わずかの圧力差は水の表面張力とガーゼの張力によって支えられています。
 ガーゼや厚紙は水との親和力によって水にはりついていると言うべきでしょう。その重量は水自身に比べほとんど無視してよい程度のものです。例えば実験に使った厚紙を水で濡らしたときの質量は3.4g、面積は25cm2ですから、水1.4mm分のわずかな圧力でこれを保持することができます。むしろ無視できないのは厚紙の弾性です。厚紙は自分自身よりはるかに重い物体をその弾性力で支えることができますから、ガーゼの場合に比べてやや大きい圧力差を維持できるはずです。

【現象のモデル】

 実験中、デシケータ内部の気圧を水銀マノメータで測定し、コップ内の水の様子と共にビデオに記録しました。コップ内の気体の圧力は推定の域を出ませんが、
はじめにコップ内に気体がない(a)(c)の実験では、上部の気体のほとんどは水蒸気でその圧力は飽和蒸気圧に等しいと考えられます。ちなみに実験時の水温23.5℃での飽和水蒸気圧は22mmHgです。
 これらのデータをもとに、少々荒っぽいながら、実験中のいくつかのシーンについてモデルを作ることができます。水の表面張力とガーゼの張力によって数mmHg、厚紙の弾性で10mmHg程度に耐えることができるとすれば現象はほぼ説明できます。



【結論】

 以上の実験および考察より、コップ内の水はやはり周囲の大気圧によって空中に保持されているといってよいと思います。大気と接する部分の水の圧力はほぼ大気圧とつりあっていて、わずかの差であれば水の表面張力などによってこれを支えることができます。局所的につりあいの破れたところでは、水が流出したり、外気が侵入したりします。
 水の上部に気体がある場合には、その圧力と外気圧との差が、空中に保持し得る水柱の高さを決めます。つりあいを保てなくなると、水は下部から順次滴り落ちます。コップの内外の圧力差はガラスの弾性で支えられています。

【YPCニュースNo.111,112に連載】


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