川村康文の実験教室への思い

 楽しいなければ学校の理科の授業は,生徒に聞いてもらえない。確かだと思います。是非,生徒にとって,毎日がわくわくする楽しく面白い授業を心掛けたいものだと思います。

 先輩の先生から,叱られました。「いま,君は,生徒の貴重な時間をもらって授業をさせてもらっているんだぞ。生徒は何の文句も言えずに,授業だからという理由で,無理やり君の前に座らさせられているんだぞ。君が本気でいい授業をしないと,生徒に申し訳ないんじゃないか?」とです。

 それからは,こう考えています。「確かに,お天気のいいすがすがしい日などは,生徒は,運動所で遊んでいてもいいのに,私の授業だからといって,無理無理,私の前に座ってくれている。どうも,下手すると,私にかなりの期待をしてくれている。そらそうだ。物理を習うといえば,数学や国語の先生から習うわけにはいかないし,同じ理科だといっても生物の先生に習うわけにもいかないから,生徒にとっては,物理をとったがために,私の授業を聞くしか選択肢が無い。やっぱり物理屋の自分が生徒の面倒をちゃんとみてあげないと,,,」

 「でも,なんで,私は物理を教えているんだろう。物理教師として,何を教えたいのだろう。数学でも,化学でもなく,物理を!」

 「大学で受けたある授業が,原点だと思っています。大学で不勉強だった僕が,必死で板書を写した授業が!その先生の授業,何故か,毎時間,毎時間が僕にとっては楽しかった。」

 「そして,高校の物理教師だったときも,そしていまでも僕は,授業の一番最初の時間に,「槌田劭」という先生から習った話を,学生にしている。僕にとっては宝物のような言葉なので,授業で伝えている。」


 僕は,いまも,日本全国あちこちから,理科実験教室の講師をしてほしいと依頼される。ときには,テレビのバラエティ番組で実験の紹介をしたりなどしている。なので,楽しい理科実験教室をしているんだろうと思っていただいているようです。もちろん,私が行った実験教室を,子供たちが,おもしろかったとか,楽しいからまた来たいといってくれるのは,自由です。
 
 しかし,

 僕は,楽しい実験教室をしようとは,思っていません。
 
 これは,楽しいだけではだめだと実験教室を批判する方々へのメッセージではありません。楽しいだけで終わるのではなく,どんなことが理解できたのかが大事だといわれるみなさんがされる批判ですが,その意見へのメッセージではありません。私は,自分が行う実験教室で,勉強もべつにしてほしいと思っていないからです。

 じゃ,なぜ,実験教室をするの?と,ご質問を受けるかと思います。

 それは,私は,槌田劭先生に,気づかせて下さったことを,次の世代に伝えからなんだと思います。

 次世代のみなさんに,是非,本気で科学をやってほしいというメッセージを伝えたいということです。

 科学は,アリストテレスの時代には自然哲学といわれ,,,云々,,,そして,専門性をもって分化し,やがて科学として成立したとか,という話ではなく,

 「科学の科は,「とが」と読むんです。科学とは,「とが」の学問です。科学をやるということは,キリストが十字架を背負って歩いたのと同じく,科学という「とが」を背負って歩くということです。」と,おっしゃった一言に尽きます。

 私は,物理教師になろうと思っていましたが,そのときに,科学者でありたいと,はっきり自覚しました。

 科学は人類の幸福のために発展してほしいと願っています。

 実験教室では,必ず,子供たちに語ります。

 科学を勉強して,将来,研究者になったり,技術者になってほしいけれど,

 科学や科学・技術を,人の命を奪ったり,環境を破壊したり,兵器として使ったりせず,

 本当の意味で,人類の幸福のために科学を学んで,

 そういうことがわかる科学者になってほしいというメッセージを語ります。

 そして「山も川も大好き(環境保護ソング)」とか「悲しみを超えて(9.11以降に作詞・作曲した世界平和を祈る歌)」,「つながる思い(3.11以降に作詞・作曲した東北復興応援・がんばろう東北・がんばろう日本)」という歌を,実験教室で子供たちにも歌ってもらっています。

 Science is fun!科学はたのしい!!っと,私も思っています。しかし,科学はその本質に「とがの学問」の面をもっていて,そのことを自覚したうえで,科学研究ということが成立するのだと考えています。

 だから,私は,実験教室の講師を受けます。そのことを,子供たちに伝えて,そして,そういうことを自覚した研究者や技術者や教育者に育ってほしいと願っています。