科学教育再構築に向けての提言
  ― 学校における理科教育研究・教育実践の立場から −
    
A Suggestion Towrd the Reorganization of Science Education:
        from the view points of Science education in school

             


                     小 田 泰 史
                     ODA Yasushi
                愛知県蒲郡市立形原北小学校
        Gamagori Municipal KATAHARA-KITA Elementaly School


[ 要 約 ] 新しい学力観のなかで広まってきた教えることを批判的にみる風潮は,今
     期指導要領の実施に伴いますます強くなってきた。科学を楽しみながら科学
     を評価できる児童生徒を育てるためには,どのような方策が必要か。教える
     ことを授業にどのように位置づけるかを示すことで提案する。


[キーワード] 教える 問題解決学習 発見学習 有意味受容学習 

1.問題の所在
 今期指導要領による授業を1年間行ってきた。指導内容・時間の一律3割削減,理科
では,中学校の内容からのイオン削除など,多くの問題点が実施前から指摘されてきた。
 学校週5日制を実施するためには,これまでどおりの内容・時間を確保することが難し
いことは自明である。ここで問題なのは,授業をどうとらえるかである。学力観・指導方
法・評価,これら授業を構成する各要素を再検討することなく,実際に「授業」として行わ
れてきたことである。
 では,どのような点が検討されるべきであったのか。
 新しい学力観の名の下に,「教える」ということが批判的にみられてきた。今期指導要領
の実施により,その風潮がいっそう広がってきた。評価観点の「知識・理解」が4番目に位置
づけられたことで,知識が軽視されてしまったことは,基礎学力の低下に大きく影響を及ぼし
ているという「現場感覚」がある。
 さらに,昨年度からの絶対評価の導入は授業の姿を「評価のための授業」に変えてしまい,
問題をより複雑にしている。
 このような中,これからの授業を創っていくために,教えることの重要性を再認識すること
は重要な視点となり得るのではないだろうか。

2.研究の背景

 理科を学ぶ目的は何なのか。より広い意味合いで,何のために科学を学ぶのか。教科に
ついて検討していくためには,この点についてまとめておかなくてはならない。
 科学を創るのは科学者である。科学を使うのは市民である。科学知識を市民が分かり,科
学技術を市民が生活に役立てていくことが,これからの社会ではますます重要になってくる。
 理科を学ぶ児童生徒は,将来にわたって市民であり,彼らが科学的なリテラシーを身につ
けることは,理科を学ぶ意味の大きな部分を占める。

3.研究の方法

 日々小中学校で授業をしている立場ということから,具体的な実践例を通して,指導要領
及び教科書の問題点を指摘する。それに対して,具体的な改善案を提案し,教えることの重
要性を示す。
 理科の授業において,学習方法として「問題解決学習」が多く取り上げられている。教室の
指導案レベルの用語としては「子どもの思いにそった」授業である。この問題点についてもあ
わせて検討する。

4.学習のあり方
 問題解決的な学習を否定するわけではない。なぜ?どうして?と疑問に思うことは子どもだ
けでなく大人でもごく自然のことであり,学習の動機付けとして大切にしていきたい部分である。
「教えることの重要性」といっても,もちろん,丸暗記によって知識を獲得させることをねらった
ものではない。
 理科の学習でいえば,
   @ 教えるべきことは教えておく
   A 実験・観察など必要な技能を身につ
      けさせておく
   B 問題解決的な学習にとりくむ
という学習の流れを組むことの提案である。
「子どもの思いにそう」という主張から「問題解決的な学習」から始める授業が多い。その中で
は,前提となる知識がなかったり,技能がが伴わなかったりすることがある。このときに「子ど
もなりに」ということばがしばしば使われる。響きはよいのだけれど,学習の目標からずれるこ
ともあり,学習に要する時間は多くなる。
 1年間の授業を計画する際,大きな問題は時間の確保である。問題解決的な学習のよい点
を取り入れつつ,時間を確保していくためには「教えるべきことは教える」という方向をもつべき
である。

5.どこで教えるのか
 ものの見方を自然に身につけるということはあるのだろうか。子どもたちが身につけていく知
識を
     学校知…学校で習わないと一生身につけることのないもの 
           知らなくても生活できるもの 
     日常知…(学校知ではないもの) 
の二つに分けてみる。学校知の範疇にあるものは,どこかで「教える」という段階があるはず
である。そうすると,
     どの段階で教えるのか
     どのように教えるのか
という議論が必要になってくる。

6.空間の把握
 理科の学習の中で,天体分野は難しいとされている。空間の位置関係の把握は高度な内
容であり,小学生には難しいという理由である。
 ここで指摘したいのは,難しいから教えないというのは理由にならないということである。教
育学の理論的な基盤の上でいつ,どのように教えるかを考えていかなくてはならない。
 小学生段階の空間の認知能力はどのように発達していくのか。われわれ教室にいるものは
「なんとなく」認識しているものの,客観性はない。
 たとえば,左右の認識を考えてみる。小学校1年生には,「鏡文字」がみられる。上下の反転
はなく,必ず左右の反転である。
鏡文字を書く子は,多くは左右を正しく認識していない。鏡文字が見られなくなる時期と,左右
を正しく認識できるようになる時期とはほぼ一致している。
 立方体を描くこと。それが黒板に示されたものを写すだけでも子どもにとっては難しい作業で
ある。小学校高学年になると,ほとんどの子ができるようになる。
 さらに,地球儀の上に自分が立ち,それを上空もしくは宇宙空間から見るというような想定で
は,自分と空間との位置関係をつかむことのできない子が目立ってくる。
 
7.方位を知らない子ども
 昭和40年代の教科書を見ると,方位は小学校2年生の理科で,太陽の移動によって定義さ
れていた。
 太陽が昇る方角を東。沈む方角を西。太陽が空の一番高いところにきた方角を南。その反対
側を北。
 このように,太陽の動きと共に方角が示されていた。
 平成14年度版の教科書では,3年生で「太陽のうごきとかげのむき」「太陽のうごきと方角し
らべ」という項目がある。しかし,そこでの方角の扱いは「方いじしんのはりは 北と南の方角を
  さして止まる。北と南の方角がわかれ  ば,東と西の方角を知ることができる。」
となっている。さらに「太陽が見える方角が南」「かげのむきがかわるのは,太陽がうごくから」
「太陽が南のほうに見えるときは,かげは北のほうにできる」という記述がある。しかし,太陽の
動きを直接的に観察して方角を定義していない。
 高学年の子どもに方角を聞いたとき,すぐに答えが返ってこない。太陽が出ている日中でさえ,
磁石がないと方角が分からないという。方角の学習の仕方との因果関係は分からないが,現実
として子どもたちのこのような反応がある。
 太陽の動きと方角とを関連させて扱うことは,天体の学習をするときに最も基礎的な内容であ
る。「なぜですか」とか「考えましょう」という問いかけではなく,教える内容である。

8.ものの燃え方と空気
「物を燃やし,物や空気の変化を調べ,燃焼のしくみについての考えをもつようにする」という単元
目標で学習がすすめられる。教科書の実験は「ふたをしたびんやかんの中ではなぜ火が消えてし
まうのだろうか」という問いから始まっている。実験をしていく中で何か新しいものを発見させようと
しているわけだが,はたして発見しているのだろうかという疑問が残る。
「子どもの思いにそって」授業を組んだり実験を計画し,発見をさせようとしているのだけれど,実は,
発見していないという状態である。
 なぜそうなりましたか,と問われても,それに答えるために必要な基礎的な知識をもたないままで
は,子どもにしてみれば,考えることができない。ましてや,発見などはできない。
 ここでは,考える道具として空気の組成と空気が粒でできているという基礎知識を学習に先立っ
て提示しておく。
 過酸化水素水から酸素を発生させその中にろうそくを入れる実験の前に空気の組成やそれが粒
でできているということを知ることで,ろうそくが盛んに燃えるようになる変化の説明が,絵を描いて
説明するときも,ことばで説明するときも,具体的になってくる。

9.先行する知識の必要性
 特に研究授業をひかえた小学校の教室では,子どもに教科書をもたせないということがしばしば見
られる。これは,学習を発見的にすすめたいという授業者の思いからである。授業者の思いというよ
り,時代の雰囲気といった方がよいのかもしれない。前述した「子どもの思いにそった授業」が要求さ
れるためである。
 一方,中学校の日常の授業では,予習をしていくことが求められる。数学や英語に時間を割かれが
ちではあるが,理科や社会科についても予習はしていった方が望ましいとされる。
 初学者である小中学生にとっては,実験・観察をするとき,何を見たらよいのかわからない状態であ
る。顕微鏡で微生物を観察するとき,見るべき対象と水泡との区別がつかない子もいる。
 観察しなさいといわれても,何を見たらよいのかわからないままでは,何も見えてこない。観察者が
仮説をもっていてはじめて対象はその姿を見せてくれる。子どもたちは仮説をもつための十分な知識
や経験を持っていない。

10.よく見る・よく考える
 知識軽視の風潮を批判し,記憶することに重点を置いているともみられかねない。たとえそう見られ
たとしても,観察する力も,論理的に考える力も,知識なしには成立しない。
 どこを見るのか,何を考えるのか。この点を示すことで,子どもの活動の様子が変わることがある。
 5年生の生物教材でメダカを扱う。教科書には「図を参考にして,メダカのおすとめすを見分ける」と
ある。図では,せびれ・しりびれ を囲って示し視点を与えている。図を見ながら雌雄の判別をするとき
はこれでよいのだけれど,図を見ずに判別したり,テスト問題に答えたりするときには,これでは不十
分である。図を眺めているだけでは記憶とならないのである。
「メダカのおすは,せびれに大きな切れ込みがあり,しりびれが大きい」という文字情報を与えてから
図をたしかめ,実際のメダカを見ることで,知識としての定着も,観察の意欲もともに高まる。 

11.学習内容の選択・配列
 どのような基準,考え方で学習内容を選択し,配列するのかを検討しなければならない。現状では,
学習指導要領と時間配当の制約の中で行わざるを得ないが,少なくとも授業方法の検討をすることで
配列の工夫をしてはいるがそれも限界がある。
 学校週5日制という枠組みの中で授業時間数が決まってくるのであれば,この条件の下で学習内容
を選択せざるを得ない。とはいえ,時間数の削減に応じて学習内容を削減,選択していくのであれば,
学習の系統性も学習内容の魅力も限りなく減っていってしまう。
 私たち実際に授業を組み立てるものとしては,発見学習・探求学習が優位に立つ状況に縛られるこ
となく,教えるということの必要性を再認識し,限られた授業時間を有効に使う方法を検討・実践するこ
とが重要である。

12.教えの復権をめざす議論
 2002年度の理科教育学会全国大会では,2つのグループが「教える」ということの重要性を主張す
る研究発表を行った。ひとつは,進藤公夫氏(第一薬科大学)をはじめとする福岡のグループである。
「さよなら,発見主義:理科教育の新しいパラダイムを求めて」というテーマにあるように,発見学習一
辺倒の理科を見直す必要性を強く訴えていた。もう一つは,川上昭吾氏(愛知教育大)を始めとする
愛知のグループである。ここでは,有意味受容学習を導入した理科授業の改善について具体的な提
案を行っていた。
 さらに,2003年3月には,大村はま・苅谷剛彦・苅谷夏子の三氏が「教えることの復権」(ちくま新書)
の中で「はやりの教育観に振り回されることなく『教えるということ』を正面からとらえ直」している。
 いま,理科に限らず,学校教育全体の中で,教えることの重要性を再認識すべき時期になっている
のではないだろうか。


日本科学教育学会年会論文集27(2003)
課題研究発表(学会企画A)
pp.. 49-52


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