火星で音は聞こえるか
火星面のMPF
火星表面に降り立ったマーズ・パスファインダー(MPF)は10月7日の交信を最後に通信が途絶えました。JPLのスタッフはその後も一縷の望みをつないで毎日通信の回復を試みていますが、10月末日現在音沙汰はないようです。それでも設計寿命をはるかに越えて健闘したMPFには拍手を送りたいと思います。ところでその拍手の音は火星では聞こえるのだろうかというのが今回の話題です。
ご存じのように火星表面の大気圧は約7hPa(約5mmHg)です。これは地球でいうと高度33kmくらいの成層圏の気圧に相当します。かなり真空に近いといっていいでしょう。火星でも風が吹くことはわかっていますが、これだけ大気が薄いと風の力も弱いようで、MPFが送ってきた風力観測用の吹き流し(windsock)の画像は、ほとんど変化がありません。
排気鐘の実験の真相
それでは音はどうでしょう。MPFは風の音を聞くことができるのでしょうか。真空中の音といえば排気鐘の実験を思い出します。排気鐘を真空ポンプで真空にすると音はたちまち聞こえなくなります。これをさして、音は空気の振動として伝わるのだから空気がなければ当然聞こえなくなる、といった説明をしがちですが、これには少々問題があります。排気鐘内を30hPa以下にまで減圧すると中からの音は確かに聞こえなくなるのですが、「身のまわりの物理」兵藤申一(裳華房)によればこの程度の気圧では気体分子の平均自由行程は十分短く、普通の音波なら問題なく伝わるはずだというのです。それではなぜ中からの音が聞こえなくなるかといえば、それは音響インピーダンスの差が大きくなるからだと兵藤先生は指摘しています。音響インピーダンスが大きく異なる媒質境界(気体と容器の境)で音はほとんど反射してしまい、表に透過しなくなるのが排気鐘の実験の真相だというわけです。
真空中で音を聞く実験
それでは音源も観測者も共に排気鐘の中にあれば、火星表面程度の気圧でも音は聞こえるのでしょうか。図1のような装置で実験してみました。
特別な装置を工作せずに有り合わせのものの組み合わせで行なったので多少こみ入っていますが、信号の流れは次のようになっています。
(1)低周波発振器で1kHzの信号を発生し、FM電波にのせて送信する。→写真1
(2)真空容器内のFMラジオでこれを受信し、1kHzの音源とする。
(3)真空容器内にマイク付き小型ビデオカメラを置き、ラジオからの音を拾う。→写真2
(4)ビデオカメラからのAV信号をビデオトランスミッターでUHF送信する。
(5)室内のチューナー付きビデオデッキにUHF室内アンテナをつけて受信する。
(6)音声ライン出力をオシロスコープに入れて振幅の変化を見る。
(7)真空容器内のビデオカメラでオシロ画面を撮影し、音声と共に録画する。→写真3
真空容器内の気圧は真空ポンプと容器の途中に入れた水銀マノメータで測定し、気圧を紙に書いたものをビデオ画面に写し込んで記録しました(→写真3)。またラジオの振動がなるべく器壁を通じて伝わらないようにラジオは容器のふたに宙づりにして測定しました。
火星で音は聞こえるか
実験の結果はこうです。ラジオからは聞き苦しくない程度(音が割れない程度)の音量で1kHzの信号音が出ています。排気を進めるにつれ、はじめは容器内から漏れていた直接音はしだいに弱くなり、30mmHg(40hPa)ではほとんど聞こえなくなります。しかし、真空容器内で拾った音声信号はこのあたりまであまり変化がありません。内部では音が聞こえているのです。気圧が20mmHgになるころから、オシロスコープが示す波の振幅は目立って減少し、火星面の気圧に相当する5mmHg(7hPa)では1気圧のときの1/10ぐらいになります。確かに音圧は減少するのですが、それでもかすかに聞こえてはいるのです。受信した信号の振幅の変化を図2に示します。
ビデオカメラにはAGC(自動利得調節回路)が組み込まれている可能性があり、特性はリニアではないかもしれません。むしろ単純なマイクアンプで測定する方がよさそうです。これはノイズ対策と共に今後の課題としましょう。
結局、音圧の減少は気圧ほどではなく、大気組成の違いを考えても火星のMPFには声援はなんとか届きそうだという結論です。風の音も聞こえているのだと思います。バルブを開いて真空容器に空気を戻すときの音はちゃんと録音されていましたから。でも、将来火星表面に降り立つ探検者はヘルメットをかぶっているので、音響インピーダンスの壁に阻まれて、残念ながら火星の音声を生で聞くことはできないということになりそうです。
【参考文献】YPC二ユースNo.116(横浜物理サークル)PDF版340KB