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【距離を考える
  ・地球から太陽までは、1億5千万km
  ・地球から月までは、38000km
  ・光の速さは、300000km/秒】

「で、さきほどの距離。こういうこともね、数としては覚えてるけど、どのぐらいの距離なのか。
  半径が6400kmの地球を3mmにしたときに、9cmもあるんですよ。地球を1cmとしたら、月まで29cmもあるんですよ。」



【「みえる」を考える
  ・みえることと、見えること。】

「今までのことをふまえまして、「みえる」ということをここで改めて考えたい。私どもは、こういう場面でお話させていただく機会がありましたら必ず言うことがあるんです。
  みえるというのは、二通りの書き方がある。平仮名の「みえる」と、「見」の方の「見える」。まあ、前者の「みえる」っていうのは、「理解する、分かる」という意味です。
  「見」を使うと、私どもの学校の生徒は見えません。しかし、方法を変えて色んな物をみることができる。
  私どもの生徒はですね、皆ね、『テレビみた?』とかって言うんですよ。『昨日は上戸彩が可愛かった』とかね。
  可愛い子を皆知ってるんですよ。全盲生の彼がですよ。
  この中で英語が堪能な方いらっしゃると思います。しかし、私も含めてあまり皆さん、得意じゃないんじゃないかな。その時に、英語を知らないからといって、外国文学で感動しないんでしょうか。私は感動があると思います。
  翻訳されたものを通しても私たちは、感動が伝わってくると思います。翻訳する、すなわち私たちの生徒は、自分の目では見えないけれども、私の目を使い、友達の目を使い、そういう目を使って物をみてる。」



「次に電磁波を考えたい。これはですね、国立環境研究所のHPから引っ張って参りました。こういう風に電磁波というのは波長でずっと連続しております。
  私たちが先ほど言った、「見」を使う「見える」というのは、この可視光線の電磁波を視覚が、視覚神経が察知しているにすぎない。もし、可視光線でなくて紫外線を感じることしか出来なかったら、今この世界は全部変わって見えるでしょう。
  私たちはこういった電磁波、これだけ長い電磁波の中のわずかな可視光線で、見える、見えないを判断しているにすぎないんです。」



【全体像の重要性
  ・全体が分からなければ、部分が分からない。】

「で、まとめになりますけれども、全体像、私たちは今何を学んでいるのか、何をやっているのか、これを認識することがどれほど重要なのか。これは、私は26年間で感じました。
  全体が分からなければ部分は分かりません。全体像を通してずっと部分をやって行くほうが、教育の現場ではとても重要だと私は思います。
  ところが今理科教育なんかで教材開発なんかでやられてる方は部分です。それがどれだけの連続性を持って、また、どれだけの生活との関連性を持って、っていうものが希薄なんです。
  ですから教材のための教材を作ってる人、私はそれがとても不満です。あの、もちろん生活だけでね、生活に密着するものだけが教材とは思いませんけれども、まあちょっと偏りすぎてるんじゃないかな、と私は思うんです。」



【全体像の重要性
  ・全体が分からなければ、部分が分からない。
  ・地図のない旅もおもしろいが、教育では?】

「地図のない旅って面白いですよね。気ままにこう、時間さえあれば私もそうしたいです。
  私は全体像を示さず、教育をしてるということは、地図を渡さずに旅をさせてるようなものだ。どういう意味かというとですね、私は教育ではきっちりした地図を子どもたちに渡す、そういう観点があって良いのではないかと思うんです。
  もちろん全員がやる必要はありません。10人いたら一人くらいやってもいいんじゃないか、そう思います。」



【全体像の重要性
  ・全体が分からなければ、部分が分からない。
  ・地図のない旅もおもしろいが、教育では?
  ・積み上げていけば、子どもたちは理解できるか?】

「よく言われるのは、一つ一つ積み上げていけば子どもたちは理解できる。私はね、そうは思わない。
  やっぱり全体像を示して、今君はここを学んでるんだよ、これを意識化させることがないと、子どもたちはやはり学んではいけないのではないかと思う。
  以上でございます。以上の方で講義の方は終わりですけども。」



「盲学校って面白いですよ。子どもたちが素直ですしね、言うこと聞きますしね。
  だけど注意しなきゃいけないんです。何を注意しなきゃいけないのか。情報を修正できない、自分たちじゃなかなか。
  私たちは学校教育で得たものが正しいか正しくないかっていうのは、生活の中で色んな情報を得る中で判断できる。ところが私どもの生徒は入力が難しい。ですからその面では、正しい知識を提供する。これは私もいつも心がけてます。
  そして分からないことがあったら、常に分かりませんと言う。一週間待ってくれって。そういうことによって正しいものをあげる。そのことを盲学校で私は学んできました。
  教員で一番悪いのは知ったかぶりをすることです。分かったようなことを言うことです。分からないことを分からないと言えるようになったら、私は本物の教員だと思います。
  中学生くらいの質問ですと、一週間かけて調べて、調べられないことはありません。むしろそういう風に調べ切れないことを出してくれると嬉しいですけど、未だないですな。」



「教員ってね、色んなネタを持ってたほうがいいんですよ。私ね、父親が船乗りだったんですよ。
  父親に教わったことってほとんどないんですけどね、2つだけ学びました。1つ、スタンバイ5分前。陸地であったら追いかけられるけど、海やったら追いかけられない。遅刻すんな。これはね、叩きこまれました。遅刻は信用を失う第一です。
  それから次、うちの父親ね、降りる前9年ほど船長やってたんですけどね、トップに立った者が最後に判断せにゃいかん。
  まあ、皆さん教員になられて、そういう判断せざるを得ない時がありますけれども、私の妻も教員やってるんですけども、それが分からない年配の教員が多いって言うんです。年くってるくせに、『分かりません』『責任持てません』とかっていうね。
  責任持たなきゃいけない時は、責任持たなきゃいけない、っていうことをね、父親から学びました。」



「皆さんにね、覚えて欲しいことがあるんです。人偏という字があります。人偏という言葉はね、とても難しいんですよ。
  例えば、「信じる」っていうのは、「人」が「言」って始めて「信」じる。だからさ、俺の眼を見ろ、何も言わなくて、しゃべらなくて通じるわけがない。
  で、夢っていう言葉がありますね。人偏に夢って書いたら、「人」のみる「夢」って「儚」いんですよ。でもみます。人間はみるもんなんです。儚いものですよ。」



「私、視覚障害の立場から言いますと、間違ってて笑われたら困るんですけど、はっきり言います。
  障害教育に携わってまして、一番面倒くさい人種って何かったらね、なまじっか障害者知ってる人たちなんですよ。障害のことは何でも分かります、ってこれが一番手強い。
  でね、そういう人たちに共通してるのはね、「私、人の為にやってるんです」って言うんですよ。「あなた方の為にやってるんです」って言うんですね。
  でもね、皆考えて。「人」の「為」って「偽」なんですよ。大切なのは自分の為です。利己主義じゃないですよ。自分を大切にできない人間が、人のことなんか考えられるわけがない。
  人の為っていったら、裏切られないとも限らないんですよ。教員の中に阿呆な連中がおりましてね、『こんだけ生徒のことをやってるのにね、ちっとも応えてくれないんです』って。
  自分の為なんですよ。私は教えるのが好きだから教員になったの。それは結果的に人の為になったのかもしれない。でもね、自分が好きなんですよ。
  皆さん理科大ですから、理科を教えることが好きでしょう。その、理科って面白いんだってことを生徒に伝えて欲しい。それはね、自分の為なんですよ。」



「でね、これだけやったら寂しいやん。一生懸命国語の辞書調べたん。人偏でいい言葉ありました。
  「人」を「憂」う人は「優」しい。是非人のことを憂う人になって、憂うことができる人に、そして自分のことを大切にする教員になってください。期待しております。」


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